50周年記念誌
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COLUMN商売人を夢見た、   負けず嫌いの文学少年 大正10年10月5日、尾山謙造は父 宗三郎と母 千代乃の四男として生まれた。男5人、女2人の7人兄弟の5番目で、宗三郎は広島市猫屋町で呉服商を営んでいた。 多くの兄弟、店の従業員の中で育った謙造少年はたくましく育っていく。人より遅れることが嫌いで、テストがあれば必ずクラスで一番に答案を出し、その速さと正確さに担任も驚いたという。このころ、既に謙造少年は商売に興味を示しており、「大きくなったら商売人になる」という謙造少年の姿に、父は目を細めて喜んだ。 広島県立広島商業学校(現 広島県立広島商業高等学校)へ入学した謙造は、3年生のころから家業の尾山商店を手伝うようになる。勉強時間は少なくなったが、好きな読書はずっと続けていた。小学校時代は少年雑誌の豪傑物や忍術、任侠などの読み物、中学に進むと夏目漱石を手始めに純文学から翻訳小説へとジャンルを広げ、ドストエフスキーやトルストイの長編を読破した。 商業学校を卒業した昭和14年ごろ、日本は戦争の道へと進み、昭和16年には第二次世界大戦が勃発。戦火が激しくなると謙造も徴用され、山口の連隊に入隊し、ここで終戦を迎えることになる。研究熱心な性格を買われ、      創業社長に就任 昭和21年、兄(尾山悦造)とその仲間たちが「五十会」という中古衣料品のせり市を始めると、謙造もそれに参加する。昭和25年に設立した繊維問屋「十和織物株式会社」では、初代社長に就任した兄の片腕となり、洋品部の部長として東奔西走した。メーカーや商社の助言に耳を傾け、常に合理性、論理性を追求して強い信念を持ち、安易な妥協は許さなかった。その商品研究は業界随一と言われ、一目置かれる存在となった。時には歯に衣きせぬ発言もあったが実に面倒見が良く、相談に訪れる人には親身になって助言をした。 昭和38年、流通事情視察に参加した謙造は、日本よりはるかに進んだ欧米先進国の流通事情に驚かされた。その後、兄 悦造も自らアメリカに渡り、流通業界を視察する。時代の流れを肌で感じた悦造は、当時、流通業界に台頭し始めていた小売店のチェーン展開を決意。1号店を愛媛県宇和島市に出店することにし、昭和42年9月に株式会社フジを設立。その初代代表取締役社長を任されたのが謙造だった。悦造は、研究熱心で仕事一筋、決断力と実行力を兼ね備え、アイディアマンでもある弟に新事業を託したのだ。ごとうかい宮島を訪れた尾山謙造(後列右)と悦造(後列中)兄弟(昭和12年)海外視察中のロンドンにて(昭和38年)「商いとは売る事なり」の理念でフジを興した創業社長 尾山謙造

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