50周年記念誌
10/92
コンプレックスを バネに忍耐力を養う 明治44年9月29日に尾山家の長男として生まれた尾山悦造は、1歳半で脊髄性小児マヒを患い足が不自由になったが、幸いにも大きな後遺症は残らず日常生活を送ることができた。大正13年に広島市商業学校(現 広島市立広島商業高等学校)に入学すると、不自由な足にもかかわらず、生来の負けん気からスパルタ式の軍事教練にも参加。そこで忍耐力を養い、事にあたっては最善を尽くし、さらに次善の策、三善の策を取ることを身に付けたという。2年生のころから読書に没頭し、夏目漱石や森鷗外、芥川龍之介に傾倒。さらに谷崎潤一郎、志賀直哉など大正ロマン時代の小説を読みふけった。 昭和4年に商業学校を卒業すると、家業の尾山商店を手伝うようになり、ボストンバッグ1つで全国を駆け回った。時には朝鮮半島や中国大陸にもわたり、失敗を繰り返しながら商売のノウハウを学んだ。 昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されたとき、悦造は爆心地から1、500mの自宅にいたが運良く助かる。これ以降、死を恐れることなくどんなときにもベストを尽くして生きれば、いつ死んでも悔いはないと達観できるようになった。後に悦造は「私は小児マヒと原爆で、九死に二生を得た」と語っている。フジの創立者 尾山悦造 第二代社長に就任 昭和25年5月、悦造は「五十会」の仲間10人と繊維問屋「十和織物株式会社」を設立する。当時、悦造は39歳で年上の仲間が5人いたが、それまでのキャリアや仕事ぶりが認められ、推されて社長に就任した。 経済成長の波に乗り業容を拡大していく中、悦造は昭和34年に激務の社長職を一時退く。このとき『流通革命』という本に出会い、流通業研究を開始。全国のスーパーマーケットを100店以上見て回った。昭和38年に十和の社長に復帰した悦造は、弟であり常務の尾山謙造を欧米諸国流通事情視察に派遣。41年には自らアメリカの流通事情を視察し、小売業への進出を決意する。昭和42年9月に株式会社フジを設立し、尾山謙造を社長に推挙。同年10月に1号店のフジ宇和島店がオープンし、昭和47年には12店まで店舗網が拡大したが、同年10月23日に謙造が急逝する。 悦造は悲しみに浸る間もなく、自ら第二代社長に就任する。昭和48年4月21日にフジショッピングスクエア駅前店がオープン。四国初の大型ショッピングセンターとして注目を浴びたこの店舗は、謙造が土地の確保から奔走し、ようやく実現に漕ぎ着けたものだった。「和・恕・忍」の経営哲学でフジを育てた第二代社長 尾山悦造近所の友人たちと(右・昭和5年)アメリカ流通事情視察に出発する一行。中央付近で杖を持っているのが悦造(昭和41年2月27日)COLUMN
元のページ
../index.html#10